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ペルーの日系詩人ホセ・ワタナベの詩

詩の雑誌『詩と思想』2016年10月号寄稿文を織り交ぜながら

2016年、土曜美術社出版販売株式会社より、新・世界現代詩文庫として『ペルー日系詩人ホセ・ワタナベ詩集』を細野豊さんと共編訳で刊行させて頂きました。

ホセ・ワタナベは、日系二世のペルー人です。1945年にペルー共和国北部のラ・リベルタ州ラレドの農場で、日本(岡山県)からの移住者である父親の渡辺春水(わたなべはるみ)と、ペルー人女性のパウラ・バラス・ソトとの間に生まれました。1907年、24歳の時に詩誌『クアデルノス』主催の若手詩人コンクールで最優秀賞を受賞し、初めてペルー国内で詩人としての評価を得ます。2001年に出版した詩選集『氷の番人』では、キューバの「カサ・デ・ラス・アメリカス賞」を受賞し、国際的に高い評価を獲得しました。

ホセ・ワタナベの作品は故郷の地ラレドへの郷愁、家族の思い出、自然との対峙、動植物への眼差し、死の恐怖、苦痛・苦悩が謳われています。日本や日本文化を強調する詩はあまり多くありませんが、どの詩にも一貫して「静観する姿勢」が保たれています。主に批評家たちは、ホセ・ワタナベを語る時には必ず俳句との関連性を取り上げます。俳句については、ホセ・ワタナベ自身もそれを認め、インタビューでこう語っています。

「俳句を読んだり勉強したりしたのは、おそらく父への敬意のようなものからだ。僕が子どもの頃、父は俳句を読んでくれた。父はまず日本語で読んで、それをすぐにスペイン語にしてくれた。―(中略)― 確かに、俳句の影響については認める。だが、その形成においてではなく、俳句に書かれている姿勢によるものだ。生きている中で、どの瞬間に現実そのものが変わったものになるかを見る。それが詩だ。」

だからでしょうか。ホセ・ワタナベの詩はスペイン語の詩であるにも拘わらず、まるで日本の詩を読んでいるような感覚を覚えることがあります。ペルーで生まれ育った日系人の彼の作品に垣間見える日本人特有の感性、儚い人生の、生命のもたらす一瞬の中に見る優美さ、そこに心を打たれます。詩の行間に、言葉の合間に溢れでる様々な複雑な感情に引き込まれるのです。それは静かに、時に切なく読み手の想像力を駆り立てるものです。彼の詩を通じて、読者はペルーのオルモスの砂漠で渇いた空気を吸い、故郷の地ラレドの広場で時間の止まった時計台の前に佇み、緑色にきらめく砂糖黍畑を歩き、アンデスの山の麓の白い鉱脈を見ることでしょう。

もう一つ、ホセ・ワタナベの詩に魅かれるのは、彼の詩の多くが「死」を意識した「生」を謳っていることです。1986年、彼は肺癌の診断を受け、ドイツで放射線治療を受けています。その後、経過観察の期間に予後抑鬱症を患い記憶障害に苦しみました。そして予後抑鬱症を脱して快方に向かう中、2000年以降は意欲的に詩集を刊行していきます。まるで何かに突き動かされるかのように…。

おそらく死を間近に意識していたからこそ、残された生をどう全うするかを常に自問自答していたのではないでしょうか。彼の後期の詩作品は死を確実に意識した作品が多くなっていきます。時が止まったかのような静かな流れの中で、自らの絶望をとりわけ穏やかな詩にして綴っているのです。

ぼくの父ははるか遠くからやってきた
海をわたり、
歩き
道を作った
そしてこの両手だけをぼくに残し
艶をなくした柔らかすぎる二つの果物のような
自分の手を土に埋めた。

この両手は父の手なのかもしれないと思う
歌麿の版画で燃える
雨に濡れた希薄な男の手。

だが人はぼくの手なのだと繰り返し言う
父は人生の
二、三の機会をつかまえて
彼の手を増やした
あるいは彼はその静まった胸のうえに
他人の手がのしかかるのを望まなかったのだ。

この両手で少しばかり
父を埋めるのだと理解するのは
そしてはるか遠くからの彼の到着を
彼がぼくの髪の上で形づくることを知っていた優しさを
埋めるのだと理解するのは容易なことだ。
彼はどんな土地からのどんな風をも捕らえる手を
 持っていたのだから。



ぼくのベッド沿いには外装のない
日干しレンガの壁があった。
明け方、ぼくは自分の鼻を壁につけ
土の深い香りを嗅いだ。それは
牧草の死んだ根が、唐草模様のように、
絡みついた山あいから持ってきた土。

ぼくの背後には、家族がひしめきあって眠っていた
荒野で野営するある民族のように。

そこでぼくは自分の舌を壁につけた
ぼくらが去る前に湿った染みを残そうとして。



裏方

ぼくのシャツと
ぼくの魂の清潔は
姉ドーラのおかげだ。
一番絆の強いそのひとは
いまはいない。
人がぼくを傷つけると
そのひとはぼくのために彼らを憎む。
ぼくがきみを清潔な姿で見れるとすれば
それはそのひとが裏方を引きうけているからだ。



友人たち

アーモンド・アイスクリームの味はいまも
ぼくらの喉に残っていて
ロレンソがぼくらの歳月について話す
そして家族の固い殻から抜け出せないまま彼は思い出す、
木の葉が落ちていたときも時間の経過に気づかなかったことを。

ぼくらは職を探さなければならない
彼の恋人はマルサス主義のパンフレットを読んだことがなかったから。

彼女は笑いながら言った、
「窓から飛び降りたほうがましよ。」
彼が言った、
「そんなことをしたらどこまでも落ちていくだけだ。」
だが、いつも午後にはじまる
ぼくらの新たな職探しは
どこかの公園の草のうえで話し合いながら終わる。

今日ぼくらは広告マンのように振るまい、
手の隙間からみんなの写真を撮った、
すると空想の産物のためのテキストが執拗にぼくらのうえを飛んだ。

いつか風が指し示すところへ旅にでよう
あるいは、イラストか詩の本を出そう
車輪、煙、木の葉、
手綱を操る両親や亡霊たちが詰まっている本を。

今分かっているのは街を歩いていることだけで
ぼくらは郵便配達夫ですらない。



病院の空

                   空虚な聖女
                   ブランカ・バレーラ
煙になったわたしの子宮は
煙突から出て、決して激しさを持たない
この空の中に暈のように溶ける。
空の激しさがわたしをもっと慰めてくれたらよかったのに。

看護師が庭を横切る、どんな花も
わたしの痛みを伝えない。痛みは
まだわたしに残されている肉体のかなたにあるだけだ。

わたしの子宮は
恋人たちや未生の者たちでいっぱいの
祭りの気球のように飛んでいったにちがいない。それは
わたしが別の肉体になろうとしたとき
とても美しい動物にわたしを変えた。
そのとき外科用膿盆にのせられた
哀れな哺乳動物の内臓ではなく、
苦渋の卵でもなく
酔いしれて幸福な神々の革袋のように
それは飛んでいったにちがいない。

死はわたしを息子のようにあやし
いまそれは火葬場の煙のようでもある。
怒り
あるいは木々を活気づけ、刈られた枝を蘇らせる
美への渇望がわたしにはある。すべては
再生するだろう、
わたしは
新しい母胎、組み合わされたふたつの手のような深いくぼみを作るだろう、
子孫を得るためではない、空ろであろうとかまわない、

だが確かにそこにあるもの。




忍冬(スイカズラ)の花が明け方に萎んだ
そしてぼくは、花の香りのない中で、詩を信じつづけた。

詩にこだわりつづけるのは難しい、花そのものが
ぼくらを困惑させるときはなおさらだ。
絶望の中で
ぼくはとりわけ穏やかな詩を書いた。
平静を願いつつほとんど理性を失って!

今、白夜のあとで
どんな詩もない中、ぼくは平静を保つ。
忍冬は、すでに言ったように、明け方に萎んだ。

ほかの花々は一日中あるだろう。
妻が居間に生けた百合、
葬列が落とす薔薇、
蜂の姿を見るやいなや命を奪おうと
荒々しく閉じる食虫植物の花。
この花たちから、いま一度ぼくは学ぼう、
ぼくがこれほど愛する詩は
目の儚く壊れやすい行為に過ぎないことを。




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